以下勝手な言葉についての、退屈なつぶやきなので、スルーいただけるとありがたい。
(でも書いておかないと、すぐ忘れちゃうので記録しているのです。)
最近、読んでいる本(現代小説)を理解しようと思えば思うほど、
結局その基となっている、古文や漢文や歴史を理解せねば壁は越えられない、、、と痛感することが多い。
それは、小説だけに留まらず、美味しい食事、眺める絵画や建築、果ては大好きな韓国ドラマに至るまで、ルーツを辿りはじめると、枝からまた枝が伸びるようにきりがなく、頭の中が、永遠に続く塔の階段を登っているような、、、不甲斐ない気持ちになってしまう。追いかけても追いかけてもこれだ!という理解は得られるず、欲しい言葉には届かず、でも好奇心がある以上は止まることもできず。無常だわ…。
そんなことをぽつぽつと考えながら過ごしている。
だから最近も、小説を読みながら、ちょっとした疑問に出くわすと、5割は解決してくれる「国語便覧」の存在が欠かせなくなっている。
常に、ローテーブルの脇を定位置とし、ちょっと目に入れば毎日パラパラと眺めるようにしている。
とここで驚いた事実がある。もちろん、自分主観、だけど。
「漱石」という言葉がある。
これ、中国の故事成語から取られたものだと知らなかった。授業で習ったのかもしれないけど、聞いてなかった。
所以は、中国の詩人、孫楚(そんそん)の『晋書(しんじょ)』から。
「石に枕し流れに漱(くちすす)ぐ」と言うべきところを、「石に漱ぎ流れに枕す」と言ってしまい、誤りを指摘されると、「石に漱ぐのは歯を磨くため、流れに枕するのは耳を洗うためだ」と言ってごまかした故事から。負け惜しみの強いこと、から名付けられたそうだ。
ペンネームだから、由来はあったのだろうけど、やっぱり明治の人は多大に中国文化の影響を受けているのだと感じた名。恐らく、中国文学を理解してこそ、漱石の良さが更に分かるのだろう(理解してないから、分かっていない)。
そして、また別の日。
「獺祭」という言葉がある。
そう、美味しい焼酎の獺祭である。こじゃれたお店に行くと、焼酎のくせに(笑)、1杯1000円もするたっけー酒である。
酒蔵の話だと、正岡子規の獺祭書屋主人から名付けたとあるのだけど、
それより以前、本当の意味があることを初めて、知った。
節分を過ぎる頃の季語に「獺の祭」というものがある。春の季語であると!
「春まだ浅い頃、かわうそが自分の取った魚をすぐには食べずに、岸に並べること。人が物を供えて先祖を祭るのに似ていることから、獺祭魚。おそまつり、またはうそまつり、という。」のだそうだ。
子規は、この獺の祭りの如く、作品を作る際に本や資料を己の周りに並べる様からその屋号を付けたのではないだろうか。
言葉というのは、知ろうとすれば、知ろうとするほどつかみどころなく、するっと逃げいていってしまう。私はどこまで追えばよいのかな?
果てしなくて、途方に暮れる一方で、いつまでも探し続ける物があるというのは素敵なことではないかしら?とも思う日々である。