きのう、何してたかな。

猫好き、山好き、本好き、映画・ドラマ好き。トドメは食いしん坊OLの、平凡な記録です。

コーヒーのお話②

歴史の続き。コーヒーの歴史は、一般の世界史と密接に関係しているので面白い。

 

☆アラビア時代から、イギリス東インド会社オランダ東インド会社

17世紀には、ヨーロッパ各地にコーヒーハウスが次々と開店した。

当時、コーヒーの供給源は、アラビア半島のイエメンのみで、コーヒーの世界市場を独占していた。生産者から買い取られたコーヒーは、イエメン市場に集められ、そこからモカ、アルホジタなどの紅海沿岸の港を通じて出荷されていた。

 

17世紀以降、コーヒーの独占市場であったイエメンのモカには、ヨーロッパにおいてはイギリスとオランダの船のみが停泊を許されていた。

イギリス東インド会社の記録によると、17世紀から1730年頃までは茶よりもいわゆるモカ・コーヒーの輸入量が圧倒的に多く、反対にオランダ東インド会社では、国内のコーヒー需要はわずかなものだった。オランダでコーヒーの飲用が普及したのは、イギリスの影響だったといわれている。

こうしてヨーロッパの国々では、イギリスがコーヒー市場において優位に立っていた。しかし、17世紀末にオランダがジャワ、セイロンにコーヒーの移植を成功させ、1711年にそのコーヒーはジャワ・コーヒーとしてヨーロッパで初めて取引された。オランダは、コーヒープランテーションによるコストダウンにも成功し、イギリス東インド会社のモカ・コーヒーの輸入は1720年以降、急速に衰えていった。その後、イギリスは、貿易の中心を茶に移すこととなる。

 

☆世界最大の消費国、アメリカ

17世紀初頭、キャプテン・ジョン・スミスによってアメリカ大陸へ初めてコーヒーが伝えられた。しかし、それまで紅茶党だったアメリカがコーヒー好きの国に変わったのは、1733年の「ボストン茶会事件」がきっかけだった。

イギリスは、コーヒー貿易でオランダやフランスとの競争に敗れ、紅茶貿易に転じた。イギリスは「茶条令」を発布して輸入紅茶を独占、価格を釣り上げた上に重税を課した。イギリスの植民地だったアメリカはこれに怒り、ボストンに停泊していたイギリス東インド会社の船を襲撃して、積荷の紅茶をすべて海の中へ捨ててしまった。

その時、海は紅茶色に染まったという。これが「ボストン茶会事件」。この事件をきっかけに、アメリカはコーヒー好きの国へと変わっていく。やがて独立戦争、西武開拓時代を経てアメリカは世界最大のコーヒー消費国へとなる。

 

☆ナポレオンとブラジルコーヒー

フランスのナポレオン皇帝は、1807年に大陸封鎖を行った。イギリスの植民地からの物資を絶つために、当時イギリスの同盟国であったポルトガルをも占領し、港を封鎖したのだ。

1808年、ポルトガル王室は、当時植民地であったブラジルへ首都を移した。大陸封鎖当時、世界最大の砂糖輸出国であったブラジルは大打撃を受けた。さらに大陸封鎖はヨーロッパ各国に自給自足を余儀なくさせることになった。

この中で、プロシア(現ドイツ)が甜菜から砂糖を作ることに成功したため、ブラジルの砂糖産業は大きな転換期を迎えることになる。ヨーロッパでは数多くの開発が試みられたが、どうしても代替コーヒーを作ることが出来ず、結果的にブラジルは砂糖産業からコーヒー産業への大転換を図ることになった。

 

まだまだ世界のコーヒー話はあるが、面白いのはこのくらいだろうか。

次回は、日本でのコーヒーの歴史について。